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能登の歴史・縄文真脇遺跡とは?(幸寿しブログ復刻版)


縄文真脇遺跡とは


 

真脇遺跡川県能登町字真脇にある北陸最大級の縄文時代遺跡です。


富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置しています。



以前より土師遺跡(ハゼイセキ)が存在
し、平安時代末期の古文書にもその名が見られます。

前から古い歴史をもつ土地として知られていました。


1980年に圃場整備(ホジョウセイビ)の計画が持ち上がり、遺跡の分布調査が行われたところ、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかりました。

 



そこで、1982年・1983年の2回にわたって発掘調査を行ったところ、驚くほど多くの貴重な遺構や遺物が見つかり、非常に規模の大きい、重要な遺跡であることが明らかになりました。

1989年には国指定史跡となり1991年には出土遺物のうち219点が国の重要文化財されています。



1997年より史跡整備のため調査を再開し、以前の調査では不十分だった点についてより詳しく検討しています。

 

その過程で新たな発見がなされるなど真脇遺跡の全貌は徐々に明らかになりつつあります。



真脇遺跡はいくつかの点で非常に特徴的な遺跡です。



遺跡からは通常は残りにくい木製品や、動物の骨、植物の種子などが非常に良好な状態で出土しました。



とくに前期末葉から中期初頭にかけての地層から出土した大量のイルカの骨は、縄文時代の人々の食生活を明らかにする大きなヒントとなっています。



そして縄文時代前期初頭から晩期終末のものまで途切れることなく遺物・遺構が出土していることから、およそ4000年もの間この地で人々が継続的に生活していたということが伺えます。

 

また、発見された遺構や遺物の中には他の遺跡では見つかっていない特殊なものがたくさんあります。



墓穴の中に板を敷いてから遺体を埋葬した「板敷き土壙墓(イタジキドコボウ)」や
まったく同じ場所で6回も炉を作りかえていた「貼床住居址」は真脇遺跡以外にはまったく類例がありません。


その他、クリの丸太を半分に割り円形に並べて立てられた「環状木柱列」は石川県金沢市の新保本チカモリ遺跡や富山県小矢部市の桜町遺跡などからも見つかっていますが、北陸独特のものであり、真脇遺跡で見つかったものも非常に重要なものです。



遺物では、イルカ骨と一緒に出土したトーテムポールのような木柱が、イルカ漁に関する儀式に用いられた可能性が考えられるとして注目されています。


また、“おさかな土器”の愛称で親しまれている真脇式土器は、真脇遺跡の調査で初めて全形がわかった土器です。


北陸独特の土器ですが、同時期に似た土器が関東や、遠くは秋田県のあたりまで出土しており、縄文人の交流の様子をうかがわせてくれます。 


このような遺跡は全国的にも非常にまれです。


縄文真脇遺跡 遺跡の環境


海岸線


旧石器時代から縄文時代前期にかけては気候がだんだんと温暖になり、海水面も上昇していったことが分かっています。



これを縄文海進と呼びます。



縄文海進はおよそ7000年前を中期にはいると、海岸線は更に現在の海側へと後退していったと考えられます。

 



土壌分析からは前期末葉には波打ち際、または海であった場所に湿地帯が形成されていた可能性が高いことがわかりました。



植生


花粉分析の結果、真脇遺跡の周辺にはカシの林が多いことが分かりました。



また、海岸沿いなど岩肌の露出するところにはマツ、谷沿いの湿ったところにはトチノキが生育していたと考えられます。


一方で遺跡の中やごく近いところにはクリ林が分布していました。



後晩期にはナラやエノキも増加するようです。
村の周りにクリが生えそれを囲むようにカシの林があった、というイメージです。



後晩期には、遺跡の前(海側)に形成された湿地にトチノキ林が分布するようになります。
トチノキはクリやカシと併せて重要な植物性食料になったことでしょう。



また、周辺からはスギの花粉があまり検出されておらず、積雪がやや少なかった可能性があります。
これが、この真脇という地に遺跡が形成された要因の一つであったと思われます。



生業


真脇遺跡からは多くの動物質・植物質の遺存体が出土しています。



植生分析から、植物質食料としてはクリ、カシ、トチノキなどが主要なものであったことが伺えます。



動物質食料ではもちろんイルカ、鯨類が主要な栄養源であったことは想像に難くありません。実際、イルカ層以外の場所や時期の地層からもイルカの骨は見つかっています。



これまでの調査で出土した動物遺存体の分析では、出土するもののほとんどが哺乳類で、魚類はわずかです。



前期末葉のイルカ層ではそのほとんどが鯨類骨でしたが、イルカ層以外の場所における分析では、陸生の哺乳類の比率が高い状況です。



同定できるものだけで言えば、陸生哺乳類ではイノシシとニホンジカが最も多く、その他テン、ウサギ、ムササビなども出土しています。



海生哺乳類は近年の調査では同定できる資料が発見できていませんが、イルカ層の調査ではカマイルカが卓越して多く、次にマイルカ、バンドウイルカと続きます。



アシカも少量ですが出土しています。



魚類はサメ類、フグ類、ベラ科が主体となりますが、イルカ層から検出されたものをみると、サバやカツオといったものも獲っていたようです。



鳥類はウ科など、冬にわたってくる海鳥が多くみられます。
貝はまだ見つかっていません。


イルカの出土が中期以降少なくなる理由については、入り江の陸化が進みイルカ漁が難しくなったか、またはイルカの解体場所が別の場所へ移ったためと考えられますとしており、その後海水面は徐々に下がっていきますが、真脇遺跡はそのさなかに営まれていたことになります。



多くの地質調査や自然科学的分析によって、縄文時代前期末葉のイルカ層は波打ち際に近く、常に海水につかっている状態であった、ということが解明されました。



現在はイルカ層のある場所より数百メートルほど離れたところに海岸線がありますから、縄文時代には今以上に陸地に入り込んだ入り江が形成されていたことが伺えます。



このような入り江の存在がイルカ漁を発展させた要因となっていると考えられます。

 

中期にはいると、海岸線は更に現在の海側へと後退していったと考えられます。

 



土壌分析からは前期末葉には波打ち際、または海であった場所に湿地帯が形成されていた可能性が高いことがわかりました。



植生


花粉分析の結果、真脇遺跡の周辺にはカシの林が多いことが分かりました。



また、海岸沿いなど岩肌の露出するところにはマツ、谷沿いの湿ったところにはトチノキが生育していたと考えられます。


一方で遺跡の中やごく近いところにはクリ林が分布していました。



後晩期にはナラやエノキも増加するようです。
村の周りにクリが生えそれを囲むようにカシの林があった、というイメージです。



後晩期には、遺跡の前(海側)に形成された湿地にトチノキ林が分布するようになります。
トチノキはクリやカシと併せて重要な植物性食料になったことでしょう。



また、周辺からはスギの花粉があまり検出されておらず、積雪がやや少なかった可能性があります。
これが、この真脇という地に遺跡が形成された要因の一つであったと思われます。



生業


真脇遺跡からは多くの動物質・植物質の遺存体が出土しています。



植生分析から、植物質食料としてはクリ、カシ、トチノキなどが主要なものであったことが伺えます。



動物質食料ではもちろんイルカ、鯨類が主要な栄養源であったことは想像に難くありません。実際、イルカ層以外の場所や時期の地層からもイルカの骨は見つかっています。



これまでの調査で出土した動物遺存体の分析では、出土するもののほとんどが哺乳類で、魚類はわずかです。



前期末葉のイルカ層ではそのほとんどが鯨類骨でしたが、イルカ層以外の場所における分析では、陸生の哺乳類の比率が高い状況です。



同定できるものだけで言えば、陸生哺乳類ではイノシシとニホンジカが最も多く、その他テン、ウサギ、ムササビなども出土しています。



海生哺乳類は近年の調査では同定できる資料が発見できていませんが、イルカ層の調査ではカマイルカが卓越して多く、次にマイルカ、バンドウイルカと続きます。



アシカも少量ですが出土しています。



魚類はサメ類、フグ類、ベラ科が主体となりますが、イルカ層から検出されたものをみると、サバやカツオといったものも獲っていたようです。



鳥類はウ科など、冬にわたってくる海鳥が多くみられます。
貝はまだ見つかっていません。



イルカの出土が中期以降少なくなる理由については、入り江の陸化が進みイルカ漁が難しくなったか、またはイルカの解体場所が別の場所へ移ったためと考えられます。

 


縄文真脇遺跡環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)


真脇遺跡では晩期の地層から巨大な柱の列が出土しています。

これを環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)と呼びます。

直径90cm以上のものから小さいものでは30~50cmくらいのものまで、巨大な柱が真円配置で、線対称形に並べて立てられていました。



環状木柱列は縄文時代晩期の北陸地方だけに出土する特殊な遺構です。

 

これらの木柱列はいくつかの特徴的な要素を持っています。



まず、使っている木材はすべてクリの木で統一されています。


クリは他の樹木に比べ、丈夫で腐りにくい木です。
そのため、柱として適していたのだといわれています。



次に、どの柱も丸太ではなく、かまぼこ状に割られています。



しかもまったく半分に割るのではなく、木の中心の芯の部分を除いてあります。
その柱は平らな面を外側にして立てられています。

 

また、円形に並んだ柱の中には入り口と見られる施設が作られています。

柱とは別の扉状のものを付けるものもあれば、簡素なものではその部分の柱をハの字状に開いて立てているものもあります。



さらに特徴的なのは、この環状木柱列が同じ場所で何度も立て替えられているということです。


真脇遺跡では少なくとも6回の立て替えが認められました。

この木柱列が立てられていた場所は縄文人にとって「聖なる場所」だったのかもしれません。

 


この環状木柱列がいったいどのような構造をしていたのか、何のための施設だったのか、それらはよくわかっていません。



今のところ、柱列の中に炉や墓坑などは確認されておらず、住居や墓ではなかったことはわかっています。

 

屋根や壁などの付属施設のようなものもなく、柱だけが立っていたと考えられています。

 

また、当時の人々が何らかのマツリを行う施設であったのではないか、とも言われています。



現在同様の構造物は石川、富山、新潟の16遺跡で見つかっています。

これらの地域では土器などの他の遺物の特徴も共通するといわれており、縄文時代晩期の北陸地方に、同じ思想を持った人たちの集団が暮らしていたということが伺えます。

 


縄文真脇遺跡・板敷土壙墓(いたじきどこうぼ)



 

板敷土壙墓は中期の住居址の近くから発見されました。



時期も住居址とほぼ同じです。



墓は全部で4つあり、それぞれの墓穴に板が敷かれていたことから「板敷土壙墓(いたじきどこうぼ)」と名づけられました。


全国でも類例の無い、真脇遺跡だけで確認された形態のお墓です。



板敷土壙墓(ドコウボ)が発見された地層には凝灰岩質の粘土が一面に敷き詰められていました。

 


中期前葉から中葉にかけて、真脇の人々は砂地だったこの土地を大々的に整地し、ムラの形を整えていたのです。
この粘土は住居址の床に貼られていたものと同じ粘土です。

 

4つの土壙墓(ドコウボ)はそれぞれ東西南北の四方向に配置され、楕円形をした土壙の向きも南北あるいは東西に統一されていて非常に規格性が高いものです。



また土壙自体が一般的なものよりも大きく丁寧に作られていて、この4つの墓が特別な人を埋葬した墓であったことが伺えます。



敷かれていた板はスギ材が主でしたがクリやアスナロも認められました。


当時ノコギリやカンナも無かった時代に「板」を作るのは大変な作業であったと思われます。


そのようなものを被葬者(ヒソウシャ)の亡骸の下に敷く、という行為からもこの墓がいかに特別だったかがわかります。



整地層との関連もふまえ、彼らはムラづくりのリーダーたちだったのではないかと考えられています。



出土した板の年代分析から4つの墓のうち最も新しいものと最も古いものとの間には200年ほどの年代差があることもわかりました。



4人のリーダーの下で、何世代かにわたってムラづくりが行われていたことの表れといえるでしょう。

 

 

 

4つの土壙墓(ドコウボ)のうち3号土壙墓と名づけられた土坑墓からは人骨も出土しました。

人骨は手足を曲げた、いわゆる屈葬で埋葬されており、胸には赤色漆塗りのペンダントをつけていました。



かなり腐食が進んでいてはっきりとした分析はできませんでしたが、壮年期(20代~30代)の男性と考えられます。



さらにこの板敷き土壙墓(ドコウボ)のすぐ南から木柱の列が発見されました。



この柱列は、居住域と土壙墓のある聖域を分ける意味を持っていたと考えられています。
またこの木柱列の列の方向が冬至の日没の方向を指している可能性も指摘されています。



その他この土壙墓調査時の調査区からは、石棒や土偶、そして人形のペンダント、滑石製の耳飾や玉など日用品ではない特殊な遺物が出土しました。



このことからもこの場所がムラの聖域であったことがわかります。

板敷土壙墓は中期の住居址の近くから発見されました。



時期も住居址とほぼ同じです。



墓は全部で4つあり、それぞれの墓穴に板が敷かれていたことから「板敷土壙墓(いたじきどこうぼ)」と名づけられました。


全国でも類例の無い、真脇遺跡だけで確認された形態のお墓です。



板敷土壙墓(ドコウボ)が発見された地層には凝灰岩質の粘土が一面に敷き詰められていました。



中期前葉から中葉にかけて、真脇の人々は砂地だったこの土地を大々的に整地し、ムラの形を整えていたのです。
この粘土は住居址の床に貼られていたものと同じ粘土です。



4つの土壙墓(ドコウボ)はそれぞれ東西南北の四方向に配置され、楕円形をした土壙の向きも南北あるいは東西に統一されていて非常に規格性が高いものです。

 

また土壙自体が一般的なものよりも大きく丁寧に作られていて、この4つの墓が特別な人を埋葬した墓であったことが伺えます。

 

敷かれていた板はスギ材が主でしたがクリやアスナロも認められました。


当時ノコギリやカンナも無かった時代に「板」を作るのは大変な作業であったと思われます。


そのようなものを被葬者(ヒソウシャ)の亡骸の下に敷く、という行為からもこの墓がいかに特別だったかがわかります。



整地層との関連もふまえ、彼らはムラづくりのリーダーたちだったのではないかと考えられています。



出土した板の年代分析から4つの墓のうち最も新しいものと最も古いものとの間には200年ほどの年代差があることもわかりました。



4人のリーダーの下で、何世代かにわたってムラづくりが行われていたことの表れといえるでしょう。



4つの土壙墓(ドコウボ)のうち3号土壙墓と名づけられた土坑墓からは人骨も出土しました。



人骨は手足を曲げた、いわゆる屈葬で埋葬されており、胸には赤色漆塗りのペンダントをつけていました。



かなり腐食が進んでいてはっきりとした分析はできませんでしたが、壮年期(20代~30代)の男性と考えられます。



さらにこの板敷き土壙墓(ドコウボ)のすぐ南から木柱の列が発見されました。



この柱列は、居住域と土壙墓のある聖域を分ける意味を持っていたと考えられています。


またこの木柱列の列の方向が冬至の日没の方向を指している可能性も指摘されています。



その他この土壙墓調査時の調査区からは、石棒や土偶、そして人形のペンダント、滑石製の耳飾や玉など日用品ではない特殊な遺物が出土しました。



このことからもこの場所がムラの聖域であったことがわかります。

 


真脇遺跡 貼床住居跡


真脇遺跡では中期の貼床住居跡が見つかっています。



1983年の調査では2,3,4号住居と名づけられた3棟の住居跡が見つかっており、その後、近年の調査ではこの3棟以外に周辺にも貼り床住居が存在することが確認されています。



縄文時代の住居と聞くと真っ先に「竪穴住居」が思い出されますが、真脇の貼床住居には竪穴住居のような地面の掘りこみは見つかっておらず、いわゆる「平地式住居」であったと考えられています。



発見された住居はいずれも床一面に凝灰岩質の粘土が敷き詰められており、これによって湿気などを防いでいたようです。



この粘土は空気に触れると黄色くなる性質の粘土で、床面が黄色く一目でそれとわかります。



板敷土壙墓の調査でこれらの住居が建てられた頃に大規模な整地が行われたことがわかっていますが、その整地にもこの粘土は使われていました。

なかでも3号住居は非常に特殊な住居として注目されています。

 

直径約6.5mほどの円形プランで中央やや東よりに石囲炉が作られています。

 

この炉は何度も作り変えられていますが、そのたびに前の炉は壊されること無く埋められており、現在全部で6つの炉が確認されています。



6つの炉のうち古いほうの4つには内面に割った土器が敷き詰められていました。

 

土器を敷く炉は石川や富山だけでなく岐阜や愛知、北では青森にまで認められていますが、「同じ住居内に何度も炉を作った」うえに、「それを壊さず埋め」ていて、かつ「そのほとんどに土器が敷かれている」というのものは真脇のこの住居跡しか見つかっていません。

 

炉だけではなく住居の床面も、粘土が何層にも重なっており、何回かの貼り替えがあることがわかります。


この場所にこだわって何度も床を貼ったり炉を作り替えたりしていることから、何か特別な建物だった可能性もあります。


何のために炉を埋めたり土器を敷いたりしたのか、ということはわかっていません。


縄文真脇遺跡 イルカ層


前期末葉から中期初頭にかけての地層からはおびただしい量のイルカの骨が発見されました。



第一頚椎をもとにカウントすると、個体数にして285頭にもなります。



イルカ層自体は調査した範囲よりも広がりを持っているので、実際にはもっと多くのイルカの骨が地中に眠っていると思われます。

 

出土したイルカの種類は同定できたもののうち、カマイルカが55.9%と半数以上を占め、以下マイルカ32.9%、バンドウイルカ10.0%、その他1.2%となっています。



イルカ層は、獲ったイルカを解体し、廃棄する捨て場だったようです。

イルカは通常一箇所にとどまって生活してるのではなく、海水温の上下や海流などの動きに合わせて季節的に南北の移動をしています。



真脇遺跡の面する富山湾では対馬海流の分岐流が流れ込んでいますが、そこに集まる魚やイカを追って真脇の辺りにもイルカの群れがやってきたと考えられています。



真脇の縄文人はどのようにしてイルカ漁を行っていたのでしょうか。


真脇では縄文時代だけではなく明治・大正ごろまでこの地域ではイルカ漁が行われてきました。



その例を見ると、湾の中に網をはり、船でイルカを追い込んでいたようです。



しかし、最も出土量が多いカマイルカは網に追い込むだけでは捕まえられないといいます。
真脇遺跡からは周辺の遺跡以上に石槍が出土しているので、追い込んだイルカを槍で突きとっていたのではないかと考えられています。

出土したイルカの量は一つの集落ではとても消費できる量ではありません。



そこで、周辺の村々と共同で漁を行い、解体して分配していたと考えられています。

 

事実、出土したイルカ骨の中にはそのように分配したときについたと思われる解体痕が見られるものがありました。



イルカ層からはイルカ骨以外にたくさんの土器や石器、木製品が出土しています。


中でも目を見張るのはトーテムポールのような彫刻を施した木柱です。


この彫刻柱は倒れた状態で出土しましたが、もともとは直立していたと思われます。

 

彫刻柱はクリ材の丸太で、イルカ骨の中に埋もれて見つかりました。


柱の上端に溝をめぐらせ、3段の隆体を刻み、真ん中の幅広の隆体には楕円形の彫刻とそれを挟むような三日月形の彫刻を2条ずつ施しています。

 

下段の隆体には山形文のような掘りこみがあります。



この木柱が何のために作られたかはわかりませんが、イルカ漁と関係するマツリのシンボルだったとも言われています。

北海道のアイヌの人々は、狩りで獲ったクマの霊を神様に返す「熊送り」という儀式を行っています。


真脇の彫刻中もそのような「イルカ送り」の儀式に使われていたのかもしれません。


真脇遺跡公園


真脇遺跡は現在も史跡整備が進められており、周辺一帯には遺跡にちなんだ施設が整備されています。


隣接した真脇遺跡縄文館では遺跡から出土したたくさんの遺物を見学することができます。


また他にも遺跡公園、縄文温泉、宿泊施設などがあるので時間を気にせずに縄文散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。