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能登・穴水町の歴史(幸寿しブログ復刻版)


穴水町の歴史について


畝源三郎氏の穴水町の歴史を引用 畝源三郎氏の了解を得てあります。
(2001年3月28日加筆修正)


【穴水の概略史】


穴水は七尾北湾(ナナオホクワン)の北東の入江の一番奥にあります。
縄文時代以来多くの遺跡があります。


代表的な遺跡としては、甲小寺遺跡(カブトコデライセキ)(縄文前期初頭)、
新崎遺跡(ニンザキイセキ)(縄文中期前葉)
その他に御物石器(ゴモツセッキ)の由来ともなった比良遺跡(ビライセキ)などもあります。


古墳時代の遺跡としては、前波古墳群(マエナミコフングン)など特殊な横穴式石室を備えるものがあります。


特に穴水町内浦の袖ヶ畑遺跡からは、安政2年(1855)に優美な金銅装双龍式環頭大刀が発掘され著名である。


「続日本紀」の養老2年(718)9月2日条によれば、越前国に属した能登が、能登(後の鹿島)・羽咋(ハクイ)・鳳至(フゲシ)・珠洲(スズ)の4郡が割かれ、能登国が立国されます。


しかし、天平13年(741)11月10日、能登国は越中に併合されます(「続日本紀」)。


同20年春頃、越中守大伴家持が出挙督励のため、旧能登国の4郡を視察しています。


彼は、羽咋(ハクイ)から外浦を通って輪島(ワジマ)から珠洲(スズ)へ周り、珠洲正院(スズショウイン)のあたりから舟で穴水に入り、そこから中島の方に向かった事が記録されています。


天平宝字元年(757)に、能登は、越中から分かれ、再び立国しています。


ところで、能登国ができた頃の穴水だが鳳至郡にあったかというと、どうもそうでなかったようだ。


「日本後紀」大同3年(808)10月19日条によれば、能登郡にあった穴水駅が廃止されたことが書かれている。


同時に、鳳至郡の三井(ミイ)・大市・待野(マチノ)(3つとも現輪島市)の3駅及び鹿島郡の越蘇駅(七尾市)が廃止されたことが書かれています。


となると、どうやらこの頃は、鳳至郡と能登郡の境界は、現在の穴水町と輪島市の境界付近にあったらしく、穴水は鹿島郡に属していたようですね。


古代における産業だが、穴水は他の能登の海岸地域と同様、土器製塩が盛んに行なわれていたよです。


中世、鎌倉時代初期に御家人の長谷部信連(ハセベノブツラ)が、鳳至郡西部と鹿島郡北東部にまたがる大屋庄(現輪島市)の地頭として入部しました。


この頃、大屋庄穴水保(オオヤショアナミズホ)・曾山開発(そやまかいほつ)(現穴水町)・三井保(現輪島市)は鹿島郡で、現鳳至郡の宇出津村などは珠洲郡に属していました。


鳳至郡の郡域は、その後徐々に拡大し戦国時代中頃には近世の郡域になったと思われます。


室町期以降、能登守護畠山氏の分国経営の関心が、奥能登鳳至郡の内浦沿岸部に向けられ、旧来の荘園所領の再編により諸橋六郷(モロハシロクゴウ)(現穴水町&能都町)や穴水南北(現穴水町)が形成されました。


戦国期には、後程詳しく述べますが、中居で鋳物の生産が発展し、諸橋六郷ではブリ漁も始まり、穴水など内浦沿岸部は活況を呈してきました。


また穴水城に拠った長谷部氏の後裔である長氏(チョウシ)は、輪島や鵜川を基盤とした温井氏(ヌクイシ)、宇出津崎山城(ウシツサキヤマジョウ)の三宅(小三郎)氏など、郡内に割拠する有力国人達と、鳳至郡における主導権争いを演じました。


天正4年(1576)11月越後の上杉謙信は、能登攻略を開始し、長氏の穴水城は陥落、翌5年9月には七尾城も、温井・遊佐・三宅氏がこぞって裏切り落城し、最後まで抵抗した長一族は、討滅が図られた。


しかし、織田方に支援を求めに派遣されていた長連龍(チョウツラタツ)は生き残った。
翌年、上杉謙信の脳卒中による突然の死により上杉勢は急に衰えを見せた。


織田勢はそこを見計らい、前田利家らを派遣し、長連龍(チョウツラタツ)をその与力とし上杉方を攻めた。


長連龍(チョウツラタツ)は、利家と一緒に攻撃に加わわったりするとともに、郡内の在所の長(おさ)衆の支援なども受けて、長氏のかつての居城であった穴水城を奪回するための攻防を展開した。


一方、諸橋六郷に領主的基盤を持つ温井(ヌクイ)・三宅一党は、上杉氏に帰属したが、やがて叛旗を翻し、天正7年(1579)ついに上杉勢を能登から一掃した。


天正9年能登一国は織田信長より前田利家に与えられたが、翌10年5月、上杉軍の長景連らが突如奧能登に乱入し、棚木城(タナギジョウ)に立て篭もった。


越中に出陣中の前田利家は、長連龍(チョウツラタツ)に鎮圧に当たらせた。


上杉勢は壊滅し、その後、奥能登に政治的安定がもたらされた。


この合戦で、鎮圧軍に積極的に荷担した在所長衆らが、やがて利家から扶持百姓に登用され、初期加賀藩政の郷村支配を担う道が開かれた。


中世の遺跡としては、穴水町西川島遺跡群などがある。


年は前後するが、天正9年能登を領有した前田利家は、まず長百姓に命じ、戦乱で逃散していた農民の帰村を促し、郡内の有力百姓19名に扶持を与えて領内統治に利用し、同10年から11年にかけて郡内の検地を実施した。


穴水は平地が少ないので、山林や海に依存する部分が大きく、早くから、比良湊(ビラミナト)の大坂登米積船の存在も知られ、近世後期には蝦夷松前や瀬戸内との鯡(にしん)、〆粕、米などの交易も盛んであった。


漁業、製塩業も沿岸各地で行なわれ、寛文年間(1661~73)以前から御塩蔵が新﨑(にんざき)村など10村に設置されていました。


加賀藩の塩専売政策に基づいて各浜に貸付けられた製塩釜は、多くは、中居町(ナカイマチ)・中居南町で鋳造されたものであった。


また日用釜の広く貸し付けられていた。
しかし、近世中期以降は、越中高岡から進出した高岡釜のため、中居釜の貸付けは減少していった。



寛文7年、長氏の内紛事件である浦野事件で、長谷部信連(ハセベノブツラ)以来の子の末孫の宇留地(うるち)(現穴水町)(と阿岸(あぎし)(現門前町)の)長氏が断絶している。
(といっても長氏全体が滅びた訳では勿論なく、前田家の重臣であった連龍(ツラタツ)の子孫である長氏は、存続し幕末まで続き、今日にまでに至っている)


慶長11年(10年説もある)、能登に土方雄久領62ヶ村・高1万3千石が置かれ、うち鳳至郡内(フゲシグンナイ)に22村おかれた。


穴水には、鹿島村(カシマムラ)、鵜島村(ウジマムラ)、大町村(オオマチム)、川島村(カワシマムラ)、天神谷村(テンジンダニムラ)、上唐川村(カミカラコムラ)、下唐川村(シモカカラコムラ)、七海村(シツミムラ)、梶村(カジムラ)、藤巻村(フジマキムラ)、岩車村(イワグルマムラ)、鹿波村(カナミムラ)、曾良村(ソラムラ)、中谷村(ナカンタニムラ)の14の土方領の村があった。


これらの土方領は、貞享元年(1684)家督相続に関する内紛により没収され、幕府領となり、元禄2年(1689)から同8年までの鳥居忠英領、同11年から同13年までの水野勝長領の時代を除いて幕府領であった。


しかし、黒島村と加賀藩領鹿磯村(カイソムラ)との間の寄鯨に関する紛争により、享保7年(1722)幕府領から加賀藩預地となって幕末にいたっている。


嘉永3年(1850)に加賀藩は、加賀藩は海防体制の一環として藩の海岸各所に台場を築いたが、鳳至郡内でも、黒島村(現門前町)と宇出津(ウシツ)にも台場を築いた。
そして嘉永6年(1853)には、藩主斉泰が、能登の海岸を巡視し穴水も巡視している。


明治2年(1869)の版籍奉還により加賀藩領の村は金沢藩に属した。
翌3年5月、幕府領の村々は飛騨県(6月高山県と改称)となる。


同4年の廃藩置県により、7月金沢藩は金沢県となり、同年11月能登国のうちの金沢県と高山県は七尾県となる。


この時、穴水を含めた鳳至郡の全町村が七尾県となる。
同5年2月金沢県は、石川県と改称、同年9月七尾県は廃止され石川県となっています。

 

 

明治22年の町村制施行により、穴水村、島崎村、東保(とうぼ)村、中居村、南北村、兜村、諸橋村が成立。


明治36年穴水村は、町政施行。
明治41年穴水町は、島崎村、東保村を合併。


昭和8年(1933)仲居村と南北村は合併して住吉村となる。
昭和29年穴水村は、住吉村、兜村を合併、翌昭和30年、さらに諸橋村を編入した。


【中居の鋳物】
中居町(現、鳳至郡穴水町中居)は、古代末期から鋳物の生産地であったといわれ、中世にも数多くの製品を残している。


前田利家が、能登の所口(七尾)にいた天正9年(1581)、中居の鋳物師・宮崎彦九郎を所口に招いて、翌10年には、七尾に移住した。


同11年、利家が金沢城に入ると再び、利家は呼び寄せ、金沢に移り、木ノ新保(現、金沢市此花町、本町、1、2丁目)に屋敷地を与えられた。


以後、子孫は、代々寒雉(かんち)と称し、寒雉釜と称される名品を製作した。
現在も、子孫の彦九郎氏(金沢市彦三(ひこそ)町)は、釜を作り、工芸作家として著名である。


寛永年間(1624~44)、藩が塩の専売制をとると、農村で塩釜が必要となり、中居村に注文が殺到したといわれ、貸釜も急増した。


この時期からしばらくが中居鋳物の最盛期であったようである。


下って、宝暦期(1751~64)から天明期は疲弊し、釜の新調が差し控えられたようであるが、この時期、越中高岡町(現、高岡市)の金物町居住の鋳物師たちは、貸釜をもって能登に進出した。


以後、中居の鋳物は急速に衰微した。ちなみに、大正13年(1924)には完全に廃絶した。


長氏一族とは


畝源三郎氏の穴水町の歴史を引用 畝源三郎氏の了解を得てあります。
(1999年10月20日制作、2003年9月21日一部追記・削除修正)


長氏は、能登守護畠山氏の守護代を務め、清和源氏(せいわげんじ)を称している。

つまり、孝頼が大和国にすんで長谷部氏を称し、季頼の曾孫為連が、三河国長馬(現愛知県岡崎市?)に住んで長馬新太夫を称し、為連の子信連が久安3年(1147)遠江国長村に生まれたことから長氏を称するようになったのだという(『石川県史』第1編)その後、朝連・政連・有連を経て盛連に至る。


長谷部(長)氏は、鎌倉初期に能登国大屋荘の地頭として入部した長谷部信連の子孫と言われ、鎌倉後期には能登各地に発展したことが知られている。


長頼連(ちょうよりつら)から室町幕府に近習として仕えて、何代か奉公衆として仕えること続くが、このことがかえって、能登の国人としての力を弱める結果となった。


出仕すると在京することが多く、能登に戻ることは少なかった。
それに対して、温井氏(ぬくいし)は、畠山氏と密着する方法で台頭したようだ。


「『輪島重蔵宮』の棟札に、文明8年(1476)地頭温井備中俊宗(景春)、代官温井彦右衛門尉為宗、大永4年(1524)温井備中守孝宗(景国)、また別所谷八幡宮の寄進札に明応2年(1493)領主藤原朝臣俊宗(→温井俊宗のこと)とあり、温井氏が長谷部氏に代わって大屋荘を手中に収めたことがわかります」


温井氏は越中守護桃井氏の末裔と伝えられるが、畠山義統が能登守護として入部すると積極的に近づき、家臣団の中核となった。


これによって、桃井氏を滅ぼした一部族であった長氏への復讐も含められていたのではなかろうか。


畠山義統の執事に温井俊宗が見出されるが、その事は温井氏が長氏にかわった(長氏の力を上回った)ことを証左するものであろう。


しかし、応仁・文明の乱による幕府権力の失墜がおこると、長氏も在京をやめ領地に戻り経営に務めざるをえず、戦国時代が到来すると、畠山氏の配下に次第に組み込まれていった。



長谷部信連(はせべのぶつら)


長朝連(ちょうともつら)
承久3年(1221)、幕命で京都へ出陣。

将軍藤原頼経上洛の時従い上洛。


長政連(ちょうまさつら)


長有連(ちょうありつら)
将軍宗尊親王に仕える。

 


長谷部宗連(はせべむねのぶ)
嘉元4年(1306)当時の能登島の地頭。

伊夜比咩神社の造営の際の中心人物であったことからわかる。
能登島全体の地頭か、能登島西方の地頭かは不明。


ただし伊夜比咩神社の造営には、能登島に地頭代が置かれていたこともかかれているので、長谷部宗信は、ここを本貫地として居住した地頭ではおそらくないのでは、と想像される。
対岸にお穴水保方面の地頭ではなかったろうか。


長盛連(ちょうもりつら)
南北朝時代の武将。

信連から4代目の長氏当主。
長有連の子。
通称九郎左衛門。
元弘年間、能登国の戦乱を避けて加賀国江沼郡塚谷保(山中町)に移った。


建武2年(1335)名越時兼と加賀大聖寺城にあったが、後醍醐天皇が北条方の名越時兼討伐のため派遣すると桃井直常に通じて彼に属し、討滅に功を挙げている。


但馬・薩摩の一部を領地として与えられた。
のち足利尊氏と直義の対立に際しては、足利尊氏に属した。


長国連(ちょうくにつら)
南北朝時代の武将。

信連から6代目の長氏当主。
はじめ後醍醐天皇方。
建武の親政崩壊し、南北朝の争乱が起こると、足利尊氏に転じる。
九州で南朝方諸将と戦う。


足利尊氏とその弟直義との対立に際しては、長氏一族に内部分裂が起こり、国連が桃井直常に従い上洛し、直義側について、尊氏と戦う。
観応2年(1351)、大隅国出陣の功により、能登国深井保を賜った。


長秀信(ちょうひでのぶ)
南北朝時代の武将。

観応の擾乱(足利尊氏と弟の足利直義の対立・主導権争い)に際して、観応2年(1351)2月、守護吉見氏頼と結び、足利直義派の越中桃井直常と戦っている。
田鶴浜の赤倉山の近くには、観応の擾乱の際に、長秀信が拠った「曲松要害」跡地がある。


長胤連(ちょうたねつら)
南北朝時代の武将。

南朝側に立ち越中守護桃井氏と組む。


文和3年(1353)7月、能登島の金頚城で北朝側の能登守護吉見氏頼の軍と戦い、破れ没落する。


長宗連(ちょうむねつら)
南北朝時代の武将。

信連から7代目の長氏当主。
国連の弟。


長正連(ちょうまさつら)
南北朝期の武将。

信連から8代目の長氏当主。
長国連の子で、長宗連の養子となる。
通称九郎左衛門・左近将監・遠江守。
真言宗から禅宗に改宗。


はじめ能登国鳳至郡櫛比荘荒屋(門前町)に住んだ(荒屋城)が、荘内に總持寺があったので、能登總持寺の外護者として一族・被官を率いて積極的に活動をする。


同寺に永和元年をはじめ、六通の土地寄進状がある。
總持寺が永平寺に次いで(と同等位に)曹洞宗の中核的寺院になる基礎を作る。
のち同国穴水城(穴水町)に移る。正平17年南朝に属し、但馬国で戦う(但馬国へ移住)。
仁木氏らと戦った。


長頼連(ちょうよりつら)
正連の子。

室町幕府の近習として仕えている。
応安7年(1374)、将軍足利義満の九州征伐の時、畠山義深に属し、鎮西へ出陣した。
応永6年、大内義弘征伐のため将軍足利義持の命で出陣
畠山方に属し、戦功をたてる。


長泰連(ちょうやすつら)
嘉吉の乱の時、赤松満佑の居城播磨国白旗城攻めに出陣。


長政連(ちょうまさつら)
応仁2年、将軍足利義政の命で但馬国で山名軍と戦い戦死。


長光連(ちょうみつつら)
政連の弟。

兄戦死後当主(それとも秀連の後見か?)。


長秀連(ちょうひでつら)
政連の子。長氏当主。


長氏連(ちょううじつら)
長氏連の子。長氏当主。


長連之
長氏連の兄弟(兄か?)


長教連(ちょうのりつら)
長氏連の子。

長氏当主。
加賀一向一揆が能登に乱入した際、穴水城で戦死した(長享2年(1488)の長享の一揆)。


長英連
長教連の子。

信光の兄か?英連の時、穴水城で父と戦うが落城敗北(長享2年(1488))。
しばらく辺地へ逃れ隠れる。
のち穴水城を奪還して足利義輝に仕える。
享禄4年(1531)越前朝倉氏と結び、本願寺坊官下間等と加賀国で戦う。


長信光(ちょうのぶみつ)
長教連の子。

長氏当主。


長連理(ちょうつらまさ)
能登畠山氏の家臣。

長氏の庶流。
河守。
永禄年間に井上英教とならんで畠山義綱の筆頭奉行人として活躍する。
永禄9年義綱が長続連らに能登から追放されると、新たに擁立された畠山義慶に仕えた。

 


長続連(ちょうつぐつら)(?~1577)
能登畠山氏の家臣。
平加賀守盛信の次男。
新九郎・九郎左衛門・対馬守。信連から19代目の長氏当主。


叔父の英連(18代当主)の婿養子となり、能登穴水城に居城した。
将軍足利義輝に仕えて畠山義続に属し、永禄8年子の綱連に家督を譲る。
天文12年(1543)、畠山氏家臣ら(遊佐続光など)と石塚で戦う。
また天文19年、遊佐続光・加賀一向一揆の将(洲崎兵庫)などの能登国乱入の時、大槻で戦う。


一向一揆との戦いに東奔西走した。
天正4年5年(1576-77)の上杉謙信の能登出陣に抵抗し、2度とも篭城したが、上杉方に内応した温井景隆・遊佐続光らによって謀略により一族とともに自害した。


長綱連(ちょうつなつら)(?~1577)
能登畠山氏の家臣。
長続連の子。
大九郎・左兵衛・九郎左衛門。
永禄8年家督を継いで畠山義綱に仕えた。


畠山義綱の後継者をめぐる畠山氏家臣の内紛で、七尾城に入る(永禄8年(1565)。
のち畠山春王丸が2歳で当主になり、後見となるが、天正4年(1576)からの上杉謙信の七尾城の攻撃に際し、父弟とともに七尾城に篭城した。


家臣内部の分裂を激しくさせた。天正5年9月七尾城は陥落する。
父に続いて上杉方に内応した温井景隆・遊佐続光らによって謀殺された。


長連龍(ちょうつらたつ)(1546~1619)
加賀藩老臣長氏家祖。
長続連の次男。
通称万松・九郎左衛門。


長じて出家し定蓮寺(現中島町)や孝恩寺(現七尾市)の住職となった。
天正4年の上杉謙信の七尾城攻撃の際は、還俗して七尾城に篭城。
謙信が一旦引き上げた後天正5年5月、熊木・富来城を奪還した。
同月下旬、穴水城を囲む。


天正5年閏7月、謙信再び能登に侵入。
2度目の謙信の七尾攻城に際しては、途中で織田家に援軍を求めにるため、池崎孝恩寺の僧だった連龍を乞食僧に変装させて囲みを脱出させられたので、七尾城落城の際、生き残ることができた。


七尾城落城後は、第21代長氏当主となり、織田信長に属し、天正6年、兵を率いて海路より富来に上陸し、穴水を一時奪還するが、すぐ温井・三宅兄弟などの上杉勢力に追われ、越中神保氏張を頼る。


11月に信長は越中の諸将に連龍への合力を命じた。
ところが、上杉謙信が没すると、温井・三宅兄弟は上杉方を離反して信長に帰服した。


そこで、天正7年、信長は連龍に温井・三宅への遺恨をすてるように再三説得を試みるが、連龍は従わなかった。


温井景隆・三宅長盛の兄弟は、同年8月頃、上杉氏の家臣・鯵坂長実(あじさかながざね)を七尾城から追って、能登の上杉勢力を排除し、平加賀守・遊佐続光らも含む旧臣の合議体制を樹立した。


これに対して連龍は復讐の念に燃えて、同年(天正7年)冬から能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波に陣を据え、翌年3月には羽咋郡福水に移る。


温井・三宅等の七尾方も、本郷(本江)鉢伏山や金丸仏性山等の砦に拠って、邑地潟をはさんで対峙する。


能登の主導権をめぐる温井・三宅兄弟らと連龍の戦いは、天正8年5月5日と6月9日の2度、菱脇(現羽咋市)を中心に展開し、いずれも連龍が勝利を収めた。


連敗した七尾方は、三宅長盛を信長の許に派遣して、降伏と七尾城明け渡しを願い出た。
信長はこれを容れ、連龍に追撃を止めさせ9月1日鹿島半郡を(二宮川以西の59ヶ村)を与え、能登福水城(羽咋市)を居城とした。


翌天正9年(1581)、信長は菅屋長頼(すがやながより)を七尾城代として派遣した。
遊佐続光・盛光父子は七尾城を逐電したが、6月連龍に捕らわれて殺害された。

 


危機を感じた温井・三宅兄弟は、上杉氏を頼って越後に逃亡。
天正9年8月信長から能登一国を与えられた前田利家の与力となり、のち3万1千石となる(連龍の鹿島半郡は2重知行の形となる)。


天正10年には、鳳至郡棚木城に立て篭もる上杉景勝の家臣・長与氏を滅ぼし、信長・利家より書状を賜る。


同年の本能寺の変の後、温井・三宅氏が石動山衆徒と一緒に前田利家に背き、石動山衆徒と連携を取り荒山城に拠ったが、利家は佐久間盛政の援軍を得てこれを攻め、この時連龍が先陣として戦う(温井・三宅兄弟は佐久間盛政に攻められ敗死した)。


天正11年の秀吉と勝家の戦い(賤ヶ嶽の戦い)では、利家に従い近江に出陣。


また翌年、秀吉と織田信雄との戦いでは、秀吉に従い美濃へ出陣。
天正12年の佐々成政が末森城に来襲時は、利家の命令で出陣し、撃退する。


翌年、秀吉による佐々成政討伐に際しても出陣し、功により羽織り・黄金を賜る。
また天正15年の秀吉の島津義久征討時は、利家に従い京都に在陣した。


能登徳丸城(鹿西町)を経て能登田鶴浜城(田鶴浜町)に移り、慶長5年大聖寺戦などに従軍、3万3千石となる。
慶長11年、如庵と名乗り、田鶴浜の館に隠退したという。

 


長連頼(ちょうつらより)(1604~71)
加賀藩老臣長氏の2代。
長連龍の次男。
長松・左衛門二郎・左兵衛・安芸守・九郎左衛門。


元和5年連龍が没し、能登鹿島半郡と加賀能登に3万3千石を継ぐ。
織田信長からの領知宛行状により、独自の領地経営を行っていたが、寛文5年隠田検地を実施、浦野事件を引き起こした。その後、鹿島半郡は藩領となった。


長元連(ちょうもとつら)1628~97)
長連頼の嫡男。
石千代・左兵衛。
連頼の実施した隠田検地に反対した浦野孫右衛門に抱き込まれ(浦野事件)、藩によって浦野派が処罰され、蟄居を命じられた。


長連弘(ちょうつらひろ)(1815~57)
加賀藩老臣長氏の9代。
音吉・又三郎・将之佐・九郎左衛門。
本田政礼の次男で、長連愛の養子となり、天保2年長氏を継いだ。

17歳で年寄職となる。
天保14年執政奥村栄実が没すると政権を握るようになり、藩政改革派の上田作之丞の門下生らによる黒羽織党の中心人物となる。
のち黒羽織党は失脚し、安政元年年寄職を免じられた。


浦野事件


畝源三郎氏の穴水町の歴史を引用 畝源三郎氏の了解を得てあります。


浦野事件は、加賀藩政時代の能登における最大の事件だったと言っても差し支えなかろうと思います。



最大の事件であっただけでなく、その後の加賀藩内における能登の在り様を象徴する事件と私は評価します。



そういう意味で、能登の人間にとってはこの事件を知ることは非常に意義がある事と考えました。




【加賀藩内の独立国・能登半郡)】


加賀藩領の中で、鹿島(能登郡(と言った時代もあり))半郡(はんごおり)の約3万石は、天正8年(1580)に、長連龍(ちょうつらたつ)が織田信長から直接に与えられた領地で、連龍が利家の家臣となってからも、その由緒によって、長氏だけが給人支配をとっており、ここだけが独立国のようになっていました。



それゆえ3代藩主前田利常が、小松城にあって加賀・越中・能登の3カ国の所領について有名な改作仕法を施行し、検地を行なっても、この半郡(はんごおり)に手を入れることはできませんでした。



前田氏の行政にとって画龍点睛(がりょうてんせい)を欠くものであり、前田家による中央集権化の癌であったことは否定できません。



長連龍(ちょうつらたつ)が亡くなると、2代目の好連(よしつら)は、穴水城を放棄して鹿島郡田鶴浜に居館を移し、金沢に住みました。



この結果、長氏の家臣は鹿島郡に住む家臣団と金沢に住む家臣団の2派に分裂し、相互の間に次第に違和感が生じてきました。



好連(よしつら)のあと弟の連頼(つらより・3代目)が立つと、加藤采女が金沢表の代表の家老として采配を振り、田鶴浜では浦野孫右衛門信里(高田村旦那垣内に居館があった)が国家老として采配を振るいました。



なかでも毎日主君連頼と顔を合わす加藤采女は次第に長氏の中枢を握っていくこととなりました。



こうして、一方は官僚化していき、他方は在野化-土着性を強くし在地の有力農民層との一体化が強められていきました。

 


【浦野孫右衛門信里】

ところで、浦野孫右衛門信里は長氏筆頭の重臣であり、歴代の功績によって慶安より寛文にかけて在地家老として実験を有していました。



しかし信里が、ここまで重用されるまでには実は、長年の苦難の道程がありました。
信里の先代孫右衛門信秀は、慶長16年(1611)長好連死亡による家督相続問題で連頼を当主と定めた功績者でありました。



好連には子がなかったので、家臣高田与助が連龍の娘2人に養子を迎えて連龍との3人で領地を分配する案を出しましたが、田鶴浜に在住する家臣等がこれに同意せず、孫右衛門信秀も領地分配には反対でありまし。



信秀は、高田与助などの不意打ちの陰謀を聞きながらも身の危険をおかして金沢へ出向き、前田家の重臣本多政重(5万石で禄高は家臣の中で最高)と会見し、その援助を得て、鹿島半郡を分けることなく連頼1人に相続させることに成功しました。



しかしながら寛永11年(1634)に、連頼が重用した高田内匠(高田与助養子)が長家歴代の重臣を排除して、わが勢力を伸ばすために姦策(かんさく)をめぐらし、信秀を讒言(ざんげん)しました。



これにより信秀は連頼の怒りに触れ、長家を退散させられることになりました。
しかし、伊予候松平隠岐守定行に認められて2千石で仕えたと伝えられています。



その子兵庫(後の浦野孫右衛門信里)も、一時は高野山に隠れましたが父に続いて伊予候に取り立てられています。



高田内匠は、浦野追放に成功してからは、わが意に従う者のみを推挙し、専横な振舞いが多く、家政が大いに乱れました。



長氏の重臣の1人である加藤采女は、この状態を心配して、主君連頼を諌め、寛永19年(1642)に高田内匠を排斥し、浦野の復仕に努めました。



この時、浦野孫右衛門信秀の子の兵庫が孫右衛門を名乗っていました。
伊予候は孫右衛門を手放したくなかったのを、前田利常の依頼で慶安元年(1648)、長氏に復仕させたのでありました。



孫右衛門信里は、以前の禄高に50石を加禄し、その子兵庫には別に200石が与えられました。
また長氏の重臣で嗣子がなく絶えた阿岸家を次男・掃部に継がせ400石を受けさせました。

 


【深まる対立】

この頃より浦野一族の実力は次第に強まり、領内の改作方奉行以下、十村(「とむら」と読む。他藩の大庄屋や大名主にあたる者で、加賀藩から代官の役目をおわされた)・肝煎の中で浦野に従う者が多くなっていったという次第でありました。



在地家老の浦野にくみすることは、何かと便宜がよく、取り立ててもらえるとなれば当然の成り行きと言えました。



しかし金沢居住の家臣達は、面白からず、家老の加藤采女を頭にして、反浦野を唱え互いに対立していくこととなったのです。



加藤方は、常時金沢屋敷にある長氏の当主連頼を動かし、浦野を暴く運動をすすめました。先代の浦野孫右衛門信里と加藤采女は互いに助け合って長家に尽くしたのに反し、子の代になると反目しあっていたのです。



連頼は、凡庸な主君であったので、若い頃には良臣の言を聞いて治安につとめた実績は多少ありましたが、この頃になると家臣間の争いさえもおさめえませんでした。



浦野派が、この機会に連頼を廃して連頼の長子元連を立てる策謀をしたことも窺がえます。



【鹿島半郡検地騒動】

浦野孫右衛門と加藤采女の対立が深まる中、ある頃から浦野孫右衛門が、十村ら長百姓と力を合わせて新田を開き、それを私有しているという噂がたちました。



そしてそんな中、寛文5年(1665)2月、長連頼は、調査の意味を兼ねて半郡の新開地検地を行なおうとしましたが、これを加藤采女一派の策動と考えた浦野孫右衛門は、同年3月27日、検地は百姓の騒動をきたすものであるから取りやめ下さるようにと「検地御詫」を主君連頼の子・元連を中にたてて提出しました。



しかし、加藤派に動かされている連頼は同年4月2日、三宅善烝・三宅新七の両人を検地奉行に命じました。



かくして9月24日検地奉行は、関左近・関治左衛門を帳付に、吉田友兵衛を添帳付に命じ、小原次郎右衛門・小原兵右衛・藤田半助・不破武兵衛を検地算用仕立方として、鹿島路(現羽咋市-昔は鹿島郡内)から曽称(現に至る(現羽咋市-昔は鹿島郡内)に至る一部の検地を開始しました。



ここに至り浦野派は、益々結束を固め、一派23名の誓詞文を書いています。
起請文は次のようなものでした。






天罰起請文前書之事


一、互に相果申迄、九郎左衛門様、左兵衛様御為第一奉公諸事御相談可仕御事



一、此度御為之儀に付、生死如何様に罷成共(まかりなるとも)、此連判之者一所に可罷成御事(おんことまかりなるべし)



一、此度之儀(このたびのぎ)以来互に隔意(かくい)罷成共(まかりなるとも)毛頭他言仕間敷(もうとうたげんしまじき)御事右之条々於(おんことみぎのじょうじょうにおいて)偽申上者(いつわりもうしあげもうすもの)、忝(かたじけなく)も梵天帝釈四天王、惣而(そうじて)日本国中六十余州大小神祇、殊白山妙理大権現、八万大菩薩、天満大自在天神神罰、各々可罷蒙者也(まかりこうむるべきものなり)、仍而起請文如件(よってきしょうもんくだんのごとし)
寛文六年四月五日



浦野孫右衛門 浦野兵庫    阿岸掃部    中村八郎左衛門
駒沢金左衛門 宇留地平八   阿岸友之助   関左近
桜井次郎兵衛 是清伝左衛門  土谷八左衛門  永江善助
伊久留八烝  飯坂源右衛門  岩間覚兵衛   田屋六郎左衛門
仁岸権之助  仁岸権左衛門  長谷川吉右衛門 平井六左衛門
粟津十兵衛  田辺七郎左衛門 村井七兵衛



(註1)カタカナに書いてある部分は、わかりにくいのでひらがなに改めた、また、読み下し文は私畝によるものである。



(註2)九郎左衛門様は、長連頼のことであり、左兵衛様は長元連(長連頼の子)のことです。



(註3)また一番はじめの条をみると、対立の中心は、連頼でなく元連と連携をとり、また久江村(現鹿島町)の園田道閑(どうかん)、能登部村(現鹿西町)の上野、高田村(田鶴浜町)の二郎兵衛、三階村(現七尾市西三階)の池島宗閑(そうかん)、笠師村(現中島町)の太左衛門といった十村肝煎クラスの有力農民を煽動して策謀したため検地はできず半郡の空気は次第に険悪になっていきました。




【前田家の介入と前野一派の逮捕】
連頼は、この事態を重視し、独力では処理不能と判断し、寛文7年(1667)2月15日、加賀藩の重臣である本多安房守・横山左衛門・前田対馬・奥村因幡・今枝民部を通じて浦野孫右衛門一派の罪状を連記した覚書をしたためて藩当局へ提出しました。



当時は、5代藩主綱紀の時代ですが、長氏の当主・連頼が凡庸な人物でしたので、綱紀は、長連頼と長氏家臣団との相克の隙を突いていつかは鹿島半郡を直接支配しようと考えていました。



この事件により、やっと解決する好機がやってきたわけでした。
藩は直ちに罪状詮議を開始し、まず阿倍甚右衛門・松崎十右衛門2人に、孫右衛門を尋問させて罪状を調べ、同年3月2日、一味の逮捕に乗り出しました。



まず孫右衛門を本多安房守邸に召喚し、そのあと浦野一族の8人を家臣の各邸で禁固としました。



○浦野兵庫(孫右衛門長男)を横山右近方へ    
○阿岸掃部(孫右衛門次男)を前田又勝方へ
○中村八郎左衛門(孫右衛門弟)を村井藤十郎方へ 
○駒沢金左衛門(孫右衛門三男)を永原大学方へ
○宇留地平八(孫右衛門娘聟)を青山将監方へ   
○阿岸友之助(孫右衛門四男)を永原左京方へ
○伊久留八烝(孫右衛門弟)を西尾与三右衛門方へ 
○仁岸権之助(孫右衛門娘聟)を前田主膳方へ
またこのほかにも一味徒党として捕らえられた者も多数いました。




3月2日夜には、千田八郎平が領地に出張し、翌日には浦野に組する十村などを能登部村算用場に呼び出して取調べを開始。



その結果、高田村の十村・二郎兵衛、子の八兵衛、笠師村の十村・太左衛門、三階村の十村・池島、能登部村の十村・上野らを田鶴浜の獄に入獄させ、久江村の十村道閑、子の兵八、六太夫、万兵衛、能登部村の小百姓永屋を能登部の獄に入れて取調べがおこなわれました。



加藤派のもとで、行われた裁判でありますから、公平な裁判がされた可能性は低かったと思われます。



しかし、そのような事に対して、浦野孫右衛門は異を唱えず神妙に応じたようです。



彼は、加藤が今回の逮捕劇の主導者と思っていたのでしょうか。



実際には、主君・連頼が前田家に通報してこの様な事態に至ったのですが、孫右衛門・兵庫・阿岸掃部の3人は「九郎左衛門(連頼)方より私共不届之様(わたしどもふとどきのよう)に申上候事(もうしあげそうろうこと)に候(そうら)へは、兎角之申分無御座候(とにかくのもうしぶんござなくにそうろう)、私共如何様(わたしどもいかよう)に成共被仰付(おおせつけられなりしとも)、九郎左衛門家相続申候様(そうぞくもうしそうろうよう)に被成下候(くだしなられそうら)はば、難有(ありがたく)忝(かたじけなく)可奉存候(ぞんじたてまつるべくそうろう)」(読み下し文は畝による・・・・あまり自信はないですが)と述べています。



訳すと「連頼様より、私めらが不届きだという届出があったようですが、それに対しては、何の反論も致しません。




私共らは、どのような処罰を受けようとも、連頼様の家がそのまま相続できるよう処分を下してくだされば、大変有難く忝く思います」といった内容。
大変な主君思いの言葉です。




【道閑の口述】
久江村の十村役を務める園田道閑は、検地に反対した首謀者として捕らえられ入牢していますが、次のような口述をしています。





一、当春御検地御詑言の御訴訟に金沢に相詰候儀、全企に而は無御座候事



一、去年十月頃検地やみ申様に御訴訟仕候へと被仰候へ共、私共田地より出分も無之、迷惑成儀も無御座候故、度々御すすめ候へ共去年中は同心不仕候事



一、当月金沢へ罷登申刻、宇留地平八殿御申候、能州御検地の事此度御詑言申上可然候、去年浦野家訴訟の儀も、佐兵衛様、横山右近様御取持被成たる儀に候へば、此度其方共訴訟も、右御両方御聞候は悪敷は罷成申間敷と御申候、されどもヶ様之御訴訟申上、私共手前如何可有御座哉と無念在旨申候へば、平八殿御申候は、各身命を捨取持可申候間、是非御訴訟申上候へとて、其の後宇留地平八殿、駒沢金左衛門殿、飯坂源左衛門殿、御三人より五人十村方へ右文言にて誓詞被下候故、書付上申候事



一、当春金沢に罷在時分、宇留地平八殿、駒沢金左衛門殿より、肴代由にて銀子五十め、五人之十村方へ被下候、御使山内義兵衛にて御座候、関左近殿より銀子五匁、仁岸権之助殿より金壱分一切被下候事



一、当春佐兵衛様へ指上候書付下書、宇留地平八殿へ懸引談合仕候事



右之通少も相違無御座候、以上
久江村十村 道 閑 在 判



寛文七年三月九日
千田八郎兵衛殿    井関平太夫殿
堀部勘助殿      三引六左衛門殿


陰田詮議では、「いんさ浜」左衛門開が問題となりました。
この場所は、現在の田鶴浜町役場裏一帯から海岸に至る一部の地域で、上の台地から流出した土砂が自然に堆積されていったような地帯であります。



このあたりの海岸線に連なる部落では、長年水害・潮害と苦闘しながら初めて安定した農地であった事を考えると、こっそり新たに開田し私服を肥やすといったことは難しく、讒訴であった可能性が高いと思われます。



やはり加藤派の策謀の可能性が強かったと思われます。



【藩当局の浦野派への処罰】

藩当局は、孫右衛門らを逮捕すると同時に、藩主綱紀を通して保科正之(会津藩主・3代将軍家光の弟で、綱紀の舅)とともにこの処分を協議しました。



おそらく会津候は綱紀の後見人のような関係にあったのでしょう。



寛文7年8月19日には 藩当局から判決が下りました。



浦野孫右衛門は切腹、同じく一族の浦野兵庫、阿岸掃部(源太郎)、駒沢金左衛門、宇留地平八も切腹、中村八郎左衛門、仁岸権之助は越中五箇山に流刑となりました。



また阿岸友之助は自決のため刑はされませんでしたが、これら切腹人のうち家族の男子は幼児に至るまで死刑という酷い処置でした。



浦野一党に組した十村に所磔(見せしめに居住地で磔にすること)または刎首を命じ、その他の者も追放、入牢などの刑を受けました。



寛文7年(1667)12月4日に久江村十村の道閑にも判決が下りました。
自村の村端で、彼は磔の刑になり、その3人の子供達(兵八・六太夫・万兵衛)も刎首(ふんしゅ)(首切りの刑)されました。



他にも同じ十村の高田村二郎兵衛と能登部村の百姓・永屋(肝煎)が刎首の上、梟首(さらし首)となりました。



三階村の池島宗閑、笠師村の太左衛門の二人は追放となりました。
高田村八兵衛は父二郎兵衛死刑に免じられて死罪は赦され追放となっています。



【長家への処分と長家のその後】

長家当主連頼の処分については、長家が名家であることや長連龍の前田氏に対する功績などに免じて触れられなかったが、一子元連は剃髪・蟄居の処分を言い渡され、元連の子・千松(尚連)が長氏の後継者とされ、彼が長家の所領を伝領しました。



ただし領内検地の場合は藩令に従うこと、諸役人の任免は藩の承認を得ることなど条件が付けられました。



そして事件の4年後、すなわち寛文11年(1671)年3月に長連頼が亡くなりました(遺骸は、田鶴浜の東嶺寺に葬られたということです。



法号は乾徳院鉄山良剛老居士と称し、父連龍の横に墓碑が建立されているとのことです)。元連の子10歳の尚連(ひさつら)が長家の当主を襲封すると、綱紀(加賀藩)は鹿島半郡を接収し、代って3万3千石を折紙高とし、この石高に見合う米を実際に給することとしました。



つまり給人の知行地直接支配を認めない改作仕法を適用し、サラリー(禄)を与えて前田家に完全に従属する家臣としたということです。



浦野の勢力を削ぐために加藤派や連頼が、策謀し、加賀藩の力を借りたのでしたが、特権の喪失とともに、長氏の藩内における相対的地位もかなり衰えたのでした。



【滅んだ浦野家の跡】
浦野家一族及びその一党は、加賀藩により極悪人として抹殺され、わずか2歳の幼児に至るまで殺害されたので、長家維持には成功しましたが、浦野一族はは滅亡してしまいました。



田鶴浜町の字三引の亀源寺には、浦野家ゆかりの者によって祀られた一族の位牌が現存しているといいます。



【その後の鹿島半郡】

鹿島半郡の長氏の独立的な支配は、このようにして終焉を告げました。
そして藩は、その領内に、待望の改作仕法を実施しました。



その結果、年貢はこれまでの3万1千石から、5万5千石の2倍近くに跳ね上がり、村民の生
活は大いに苦しいものとなりました。



歴史家の中には「改作仕法は加賀藩の権威を確立した原動力、江戸時代を通じて、幕府をはじめ諸藩から“政治は一加賀、ニ土佐”と評されたのも、その理由の大藩は改作仕法の成功にあったと言っても過言でない」という人も居ますが、これは、完全に支配者前田家の側、または武家の側からみた言い方で、私からいわせると苛斂誅求を強いる悪政でありました。



とにかく改作仕法によって、石高がかなり上がったということは、生産性の向上も少しはあったかもしれませんが、藩に反抗した鹿島半郡に対する悪意もあったでしょう。



改作仕法では、その年のの作柄で税率を決めるの(検見(けみ)法)でなく、豊凶にかかわりない定率の定免(じょうめん)法です。



役人が、総検地の際、派遣された役人が、地味の等級にしたがって斗代(とだい)(一反の標準収穫量)を割高に報告すれば、それだけ農民は苦しむことになります。



その上、凶作などで農民が未進の場合は、一部は免除されるものの、残りは敷借米として百姓に貸与するという名目のもと年2割という高利で、今でいうなら悪徳金融業者に近いものだったといえます。



また加賀藩はただでさえ、定免法の定率が5公5民の場合がほとんどの上、測り用の枡も他藩より大きく、1升の米といっても他藩の一升よりもかなり多くとるような藩です。



2002年に「利家とまつ」がNHKで放映され、加賀藩が注目されましたが、金沢の民(加賀藩は金沢城下の町民と武士だけは大切にしました)以外に対しては、文字通り苛斂誅求を行うとんでもない藩であったのです。



【後世まで慕われた道閑、宗閑】

ところで、道閑の父は、河内出身で、帰納牢人といわれていますが、道閑の時は、持高300石で、通称・万兵衛といってたようです。



鹿島半郡の村民達も、政争と藩の思惑がからんだ事件の背景を朧気(おぼろげ)ながら感じており、道閑に哀れを感じていたので、浦野事件に連座して処刑された道閑を、農民の代表となって一身に罪を負った人物として一層慕い、神様として崇めるようになりました。



慶安4年(1651)に鹿島半郡の十村筆頭となったようです。
後世に道閑を義民視して、酒井村(現羽咋郡酒井町、当時は鹿島郡)で検地竿を踏み折り、三階村の池島宗閑がこれを持ち帰り、土中に埋めて杉を植えたが成長しなかったとか、藩吏の不手際から赦免状が遅れたとか、この地方に多い日一期(カゲロウ)は道閑の亡霊であるなど、数々の伝説が生まれました。



これらも道閑への思慕が影響したものでしょう。
また鹿島郡の村々の間に、次の様な道閑を慕った「臼すり歌」が伝えられています。



「ああいとしやな ところやちの道閑さまは 七十五村の身代わりにああ悲しやな」
町の広場の一角に、昭和42年「義民道閑顕彰碑」が建立されました。

近くに道閑の墓や道閑を祀った祠が今でもあります。



また池嶋宗閑も、追放になる前、百姓から深く慕われていました。
三階村を流れている二宮川に、自費で橋を架けたりもしました。



この橋は宗閑橋と呼ばれて、その名は今も残っています。(ただし、現在の橋は勿論、何代目に当たるのか不明だが、コンクリートの橋である)浦野事件の時、宗閑は、道閑とともに検地に反対したため、その国払いの刑(他に1名)で越後に流されました。



当時の村の人々は宗閑を慕って、
「いとしがらんせ 宗閑さまよ 行くは越後で果てしは知れぬ」
という、役人に聞かれれば捕らえられかねないこれらの唄を歌って、現在にまで伝わることとなっています。


【最後に補説】
なお事件の一方の主役、加藤采女の邸はどこかな、と思っていましたが、たまたま「鳥屋町の史跡と文化財めぐり」(鳥屋町)にを読んでいたら、記録では鳥屋町の末坂にあったとの事であり、地元の古老の話では、現在の大門池の西側一帯を占め、岩本機業場(現在あるのかな?)の付近が該当と書いてありました。